コトバノチカラ
今日の昼間、あまりにも感情が爆発しすぎて好き勝手なことをTwitterに書いた。
顔を合わせるたびかけられる言葉が耐え難くて限界だと思った。
ほんのつい数日前、友人と“言葉”の話をした。
私はコトバノチカラ=“言霊”を信じている。
言霊(ことだま)とは、一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。
こんなオタクになった経緯を話してみようと思う。なぜ、2018年現在、私はこんなに暑苦しいオタクになったのかを。
私はいわゆる「嵐から降りてきたNEWS担」に分類されると思う。とは言っても嵐から降りた気は更々ないのだけど。掛け持ちと言えるほどどちらも同じ熱量かと問われるとそれは「NO」なので便宜上、大人しくここに分類されようと思う。
かれこれ嵐担になってから17年の時が過ぎた。改めて書き記してみるととても長い年月だった。いつだったか記事にしたように、好きになった日から今に至るまで同じ熱量で応援し続けたわけではない。
プライベートが忙しくなって新曲を追えなくなったり、「これは好きじゃない」と思った事もあった。
「これは好きじゃない」と思うこと。それ自体には何の罪もないし私だけの感情だ。嵐はちっとも悪くない。受け手の問題。
ただ、そこでとった行動がよくなかったんだと思う。
もう何年も前のことなのではっきりとした言葉はもう覚えていないけど、私は明確に“何か”を否定した。
「この曲が好きじゃない」「この時の髪型が嫌」最初はそんな些細なことから始まったと思う。当時はTwitterなんかないし、相方と私だけの至極閉塞された空間でのやり取りだ。
ただ、まだ若い私はこれから始まる自殺行為に気が付いてなかった。
そこで大人しく離れてしまえば、またいつか初めて好きになった日のようにスコンと惚れ直す日が来たかもしれない。ただ、当時地元でチケットが取れないなんてことが無い時代。
何があってもコンサートには行けたのだ。
シングルは追えない、でもコンサートには行く、知らな曲がある。そうなると次は「なんで昔の曲をちっともやらないのか」と文句を垂れる。
当時は新規が爆発的に増えて来た時代で新規ウケのセトリだったんだよな、今思えば。
今なら言えるのに。嵐のことを好きになってくれてありがとう。CDを買って、コンサートにきてくれてありがとうって。若いわたしにはそんな思考はまるでなかったのだけど。
私の回顧癖も相まってその感情はぐんぐんと大きくなっていく。
そうなると次はどんな感情になるのか。
「なんかついて行けない。つまんない。新規ばかりが楽しそう」ただの僻みだ。これほど苦しいことはない。大きくなって進んでいく嵐の手を離さない方法はいくらだってあっただろうに。完全に受け手の感覚だ。
見たことあると思うんだ、このループ。これを全て、相方との閉塞的な空間ではなく、もし現代、発達したTwitterに吐き出していたら…同じ思想を持つ仲間を、もっともっと沢山見つけてしまっていたら…
立派な愚痴垢の出来上がりだ。否認のしようがない。
言葉の魔力とは恐ろしいもので、同じ思想を持つもの同士が似たような言葉を発するとそれは何倍にも膨れ上がり、それがいつしか普通になり、正義になる。これはポジティブなものでもネガティブなものでも同じ。ただ、女同士が仲良くなるツールとして悪口があることもまた、まぎれもない事実だろう。異論は認めるが、女なんてそんなもんだ。オタクの男女比率なんか知らんけど、NEWS担になってからできた友達はみんな女の子だったので便宜上女とする。
では、この時わたしはどうするのが正解だったのだろう。意見の相違を見出してスッと手を離せるような、生半可な気持ちではなかった。
でも、だからこそ。傷も痛みも一手に引き受けて離れるべきだったと思う。本気で好きだったんだから。提供されるものを愛せないのなら。その痛みすらも自分の責任だ。だって誰かに強要されてオタクやってたわけじゃない。自分が勝手に好きになってわがまま言いたいだけなんだから…。
幸運にも私は当時相方以外にそのジャンルで友達を作るなんて発想がまるでなかったために、最後の一手に手をかけることなく、少し気持ちを離すことに成功した。
その数年後、またしっかりと同じ沼に落ちる事も知らずにーーーーーーー。
出戻りの時、そりゃもう楽しかった。
大人になり、好きなものは存分に買える、好きなところに行ける。チケットは年々取りづらくなるものの、Twitter文化が発達した。
Twitter文化に初めて触れたのは、オタクのツールとしてTwitterが確立された頃だったので少しスタートは遅かった方だと思う。
しかしその頃私は割と前向きな嵐担として生きていたので、Twitter上でも輝きのある方をフォローしていた。転機はここだったと思っている。
自分には吐けない…と無力さを嘆きたくなるほど輝きを放つ言葉がそこには並んでいた。
そんなことわかりきってるよ…って事実さえ、好きな気持ちと勢いが乗るとこんなに輝かしいツイートになるのか、と眩しささえ感じた。
羨ましかった。自担にそんな言葉を吐けるオタクに心底憧れた。
そう思ってはいても、言葉を発さずただただ眺めていたのは私が弱虫だったからかもしれない。
「自分にはできないわ」そう決めつけて、諦めて。もうその頃には二度目の熱量も落ち着いていたし、何かあれば相方が聞いてくれるし、わざわざ努力してそんな言葉を吐く必要性を見出せずにまた時が過ぎる。
そんな事すらも全てを忘れかけていたとき、出会ったのがNEWSだった。
好きな気持ちを吐かずにはいられなかった。初めてまともに見るNEWSはカッコよくて、キラキラしていて、私の心の穴を埋めてくれるようだった。
「好きだ」とまっさらな気持ちでツイートしたかった。友達が欲しかった。NEWSに活躍してほしい、と心の底から願った。
そしたら全部できた。嵐担時代憧れていた「キラキラした言葉」を沢山ツイートできた。前向きで、たくさん自担を褒めて、頂いたものを美味しくいただく。
私が憧れていた嵐担も100%全てを肯定できていたとは思ってない。ただ、黙る美学を持ち合わせている人たちばかりフォローしていたので、自分も真似した。
言う必要のない事は言わなくていいやと本気で思った。それはいつか自分を真っ黒なもので飲み込んでしまう事、私は誰より知っていたから。
言葉は常用するもの。いつも暗くつまらない事ばかり吐いていると、本当につまらないオタク人生になる。これは性格的なものもあるかもしれない。人生を左右するほど、担当に向けた言葉は力を持っている。
大好きで大好きでたまらない対象に、どんな言葉を投げかけるのかはとても重要だ。
黒い感情とは、自分自身でも気付かないような深いところから侵食される。気付いた時にはもう後戻り出来ないところまで来てしまう。だからこそ逃げる、捨てると言う選択肢も頭の中に入れておくべきだろう。これはお互いのためなのだ。
私はきっと紛れも無い「表のNEWS担」だろう。あちら界隈からしてみれば理解不能なほどお花畑なことばっかり言うし、綺麗事も好んで言うし、全肯定型オタクに映るんだろう。
そうでもないけどね。
嫌なものは嫌だし、受け入れられない事もあった。でも、その自分でも持つのが嫌になる感情を処理する能力をNEWS担になってから手に入れた。黙ると言う美学。
私は自分がなりたかったオタクになれた。NEWSのおかげで。
なりたかった自分を手に入れるのがこんなに自己肯定に繋がるとは知らなかった。私はNEWS担の自分が大好きだ。こんなこと生まれて初めて思った。
NEWS担になってからは、よく言葉を褒めてもらうことがある。
「ありがとう」と感謝される事もある。でも私は私のために力を込めた言葉を吐いているし、それを見た“誰か”の力になればいいと本気で思っているので、こちらこそありがとう。と言う気持ちでありがたくお褒めの言葉を頂戴する。
“誰か”の力になりたいと願うのは、これもまた、なりたいNEWS担像が明確だからだと思う。
私は、かのパーナ事件でNEWS担になるのが遅くなったクチだ。
当時まとめられていた情報や一方的に報じられること。全てが私の目にはネガティブに写っていた。「NEWS担、まじでめんどくせえな」と本気で思っていたのだから情報とは本当に恐ろしいものだなと思う。
この時もっと、違う人の意見を探していたら。事実を知ろうとする行動を起こしていればーーー
今となってはそう思えるけど、他所の畑にいる人間がわざわざそんなことするだろうか。私ならしない。ただただそこのグループ大変だね、って感情で片付けるだろうな。
今回だってそうだ。騒ぎ立てている人間のうち、どの程度がこの問題の核心と事実に目を向けているのだろう。
現に、友人を1人NEWS担に仕立て上げようとしていた真っ最中だった。
「NEWSってこんなに楽しいよ!」「すごく幸せだよ!」ってありのままの魅力を伝えていた最中だった。
幸い、私以外のNEWS担とも繋がりがあるので、私が見て来たパーナ事件ほどの偏見はないかも知れない。
でも、そうじゃなかったら?
ちょっとNEWSが気になる…程度の時、こんなにぐちゃぐちゃなものを見てしまったら腰が引けて当然だと思う。NEWS担ですらしっかり立つのもままならないのに。
ちょっとNEWSが気になる人をNEWS担にするのが、私のNEWS担としての夢であり目標だった。
そしてもし、そんなふうに迷っている人の背中を押せるような先輩NEWS担であれたら…
私のバカみたいにNEWSを愛して褒めちぎるツイートを見て、「なんかNEWS担って幸せそうだな」と思ってほしいと言う確固たるオタク像を目指してNEWS担をやってきた。
…まだ出来るだろうか…。
正直、今は自分を保つ事で精一杯だ。これ以上何かが起きてしまえば流石の私もかなり危ないと思う。
ごめんね、今はストレートに愛を叫ぶことができない。こんなに愛しているのに。
でも。こんな時でも担当に対してネガティブな言葉を吐かずに耐えること、私は出来るよ。
こんな思想のオタクが同調圧力を助長していると言われれば何も反論はできない。
確かにそうかもなと思ってしまう。
だけどNEWSのファンに表も裏もなければ良いファンとか悪いファンなんて誰にも決められない。裏と表。つまりは表裏一体で誰しもその可能性を秘めているのでは?と自身の経験から思ってしまうのだ。私はまだ誰かを助けたい。ひっくり返りそうになっているものを何としてでも繋ぎ止めたい。それはその人自身のためでもあるのだ。ジャニオタなんか趣味なんだからどう楽しもうがその人の勝手だ。ただもし続けていくのであれば健やかに楽しむほうが精神衛生上良いのでは?と古のオタクは考える。
Twitterを応援ツールとして、公の場として捉えている。まだその気持ちは持っている。
こんな最中でも、NEWSを諦めていないオタクがいる、と、“誰か”の目に映ればそれでいい。
自分を保つため、守るために吐いているキラキラツイートで、誰かの心が救われれば私はそれでいいかな。
…こんなこと書いて幻滅されるかな。そんな人だと思ってなかったって言われるかも。
だけどこれがわたしの全て。お花畑の作り方。
もっとこれをマイルドに書いた記事を、今月末のNEWS担二歳記念日に書こうと思ってた。
かなり予定とは違う切り口になってしまったけど、その分、誰かの心に止まってくれと、身を切るような思いで願う。